創業者 宮下進が語る宮下建設工業の歩みHistory

会社の設立、作業手段

昭和34年頃、石工職人としての修行を終え、この生まれ育った中川村にて仕事を始めた。
会社を設立する前段である宮下建材の誕生である。私の家は、自分で言うのも変ではあるが、貧しく食うや食わずの家庭環境であり、又、兄弟も多く長男である私が、家計を助けなければならなかった。手に職を持ち、自分の力で出来る職業として石工の道を選んだのである。昭和28年、建設省伊那出張所の工事である中川橋下流左右両岸堤防工事を学生の頃手伝っていた折、宮澤傅一氏と知り合い、以後私が独立した際共に仕事をする仲間となった。又、昭和36年には、三六災害と呼ばれる災害に見まわれ、特に中川・大鹿両村の被害は、ひどいものであった。今も天竜川を見るたびに当時のことを思い出す。そして、私が仕事をした堤防が今もなお残っているのはまたうれしい限りでもある。

この災害は、地域住民の方にとって非常にいたましいものであったが、復旧・復興工事に携わる工事業者にとっては、当時大きな事業であった。何をかくそう宮下建材が成長したのもこの事業のおかげでもある。
昭和38年、三六災害の復興事業により、個人業としては規模が大きくなり又、税務的な面も考え、当年10月に宮下建設有限会社を設立し発足した。会社設立にあたり一大決心をしたというより、自然の流れの中で設立したということであろう。

当時の作業風景当時の作業は、すべてが手作業であった。石の採掘にはツルハシとバールにて堀りおこし、運搬はモッコで行った。土木工事も同じであった。また、コンクリート練りは、鉄板の上で手作業で行い、手には豆ができ、つぶれてはまたできの繰り返しであった。
昭和35年頃だったと思うが、初めて自動のミキサーを購入し、コンクリート練りの自動化を図った。購入にあたっては費用面で悩んだが、使ってみると機械ってすごいなと改めて思い知らされた。
このミキサーは、今も管理センター奥の倉庫に記念に保管してある。
いつの日か、若い従業員に見せ、話をしたいものである。

同時期には私は、運搬用としてトラックを購入した。今も覚えているが、ニッサンジュニアというディーゼル車で6tの車であった。36災害復旧作業の折には、この車を持っていたおかげで、大鹿村お間組まで石の運搬を行った。業務の幅が広がったわけである。

当時、工事用の石材は、どんな石でも持ってこいというほど不足しており、私は、石材の確保と採掘で、寝る暇もなく作業を行った。このおかげといっては語弊があるが、今では、南信地区一、県下でも有数の規模を誇る工事用石材を保有する企業となっている。

 

家庭・家族について、友人との出会い作業手段

私の家は、はきもの屋を営んでいた。普通であれば、学校を卒業し家業を継ぐのが常であるが、食うや食わずの日々の暮らしであったため、卒業後、今の建設省の資材倉庫にて倉庫番の仕事をしていた。周囲の方々からも、このまま役所で働けばとも言われたが、はずかしい話、背広一着も買える状況ではなく、石工職人の道を選んだ。

石工職人として師匠離れをした後、私は、奈良・京都・和歌山などへ出稼ぎとして行っていた。当時22~23才であったが、家に35,000円という金額を仕送りしなければならず、手紙を書く余裕もない程であった。余談ではあるが、関西方面では作業時に“ほおっかぶり”をする習慣などなく、私の姿を見て「かぼちゃつつみ」とか「頭かくし」などと言われ、からかわれた事を思い出す。

24才で中川村に戻り石工職人を始めたのであるが、私が29才、ちょうど宮下建設有限会社を設立した年に結婚をした。妻との縁は、私の妹達が岐阜県大垣市にある東亜紡績に働きに行っており、この会社の先輩であった今の妻を妹達が兄のお嫁さんにと薦めてくれたのがきっかけである。

今私があるのも、今は無き父母や、兄思いの兄弟がいたからこそと思い又、何ごとにも変えがたい財産でもある。

36災害復旧工事の際、私は石材運搬のため、大鹿まで行っていた。その時知り合ったのが大協建設の菅沼氏である。彼はのち大鹿村長になった人物であるが、おごることなく今でも親しくつきあっている。当時のことで思い出すのは、菅沼氏は、私ども下請への支払日には現場までメグロのオートバイに乗って来て現金で渡してくれた。このお金(お札)は、しわくちゃであり、私が思うところ苦労して用立ててくれたのであろう・・・と。また、隣村にあるシブキヤ建設の渋坂氏とも仕事を通じて親しくなり、私、菅沼氏、渋坂氏とよく3人で商売、特に銀行からの借入れ方法について検討し合ったものだ。

検討した件は実際に行ってみたりもしたが詳細については伏せておこう。しかし、金儲けは一朝一夕にはいかず、神だのみという理由ではないが、家族ぐるみで豊川稲荷におまいりに行ったりもした。なぜか、おまいりは3家族そろって毎年一回は行こうということになり、豊川稲荷だけでなく、善光寺や成田山まで行ったりした。

私自身言うのもはずかしいが、友人には恵まれていると思う。会社を設立後、元請会社が倒産し、当時で言えば多額の負債をかかえ資金に困っていた際、親身になって相談にのってくれ、自分の田畑や家を担保に入れ、お金を貸してくれた協力建材の富山氏や、今は、大協建設の社長である中村氏(当時現場代人であった)は、手形が落ちず、家族や社員に相談できず困っていた時、何も言わず立て替えてくれた。まだまだお世話になった友人は数えきれないが、今ある私と会社は、かけがえのない友人達のおかげで、成り立って来たと言っても過言ではないだろう。また、会社が資金面で苦しい時期、回りの方々のうわさ話では「宮下建設はもうダメらしい」とも言われていたが、こんな逆境にも耐え私をはげまし、がんばって働いてくれた従業員にも感謝したい。良い友人に恵まれた以上に、良い従業員に恵まれた時期であった。

 

社屋完成、社名の変更

昭和44年に着工し翌年45年に前沢川の河口に新社屋が完成した。創業以来、私の念願であった社屋が出来た時は、感無量の思いであった。

 

私がこの年社屋を建設した理由はいろいろあるが、そのうちの一つは、至って簡単なことであった。

当時の事務所は、私の家と隣接したプレハブであった。隣接といっても自宅の一部と言った方がよいかもしれない。あの当時、仕事を終えた従業員達が戻ってきた際、「いいな、社長の家は今日も魚らしいぞ」と言っていた。この言葉を聞いた時、これではいけないと思い、早急に社屋を建設しようと決心したのである。

また、新しい社屋を建てた場所は、以前ミンクの飼育小屋であった。この飼育小屋を倉庫に活用すれば、後は事務所を建てるだけでよいという考えで、場所を選んだのである。場所の選定にあたっては、家族、従業員、友人達よりいろいろ意見をいただいたが、私は、一度決めたら変える事なく押し通した。良い場所に建てることができたと、今でも思っている。

昭和46年8月1日より、宮下建設有限会社を宮下建設工業有限会社と社名を改めた。
当時、当社も官公庁と直接取引きしていただける会社へと成長していた。ただし、実績が乏しいゆえ大きな規模の物件を任せていただける企業にまでは至っていなかった。そしてこの官公庁との取引きが、社名を改める要因であった。

伊那市には、当社の大先輩である宮下建設株式会社さんが営業しており、たまたま社名が同じであったため、入札指名書類・通知書等が間違って届けられ、問題が生じた事が何度もあった。株式会社と有限会社・住所の違いがあるため、間違うはずなどないと思ってみても始まらない。伊那建設協会の加藤氏と宮下建設さんの要望により、当社は社名を改めることになったのである。

社名を改めるにあたり、従業員とディスカッションをし決めることにしたが、なかなかまとまらず、最終的には、宮下建工と宮下建設工業の2案が残った。最後は私が決断したのであるが、建設・工業と頭の2文字を取って建工とするよりは、少々長い社名になるが、しっかりと建設と工業を言いたいという考えのもと、宮下建設工業としたのである。

 

仕事の移り変わり、県知事賞受賞

新社屋建設の同年に資本金を200万円に増資、2年後の昭和46年には600万円、昭和50年には1,000万円と増資を行い業務の拡大を図った時期である。
当社は、本格的な建設業界の仲間入りを図るためにまず昭和45年に長野県建設業協会に入会をした。この協会に入会できたのは、尽力してくれた方々のおかげである。 これにより、地元大手建設会社からの仕事量も増え、又、伊那建設事務所等官公庁との取引も確実なものとなった。

仕事量が増える中、当社の骨格は土木業が中心であったが、何とか建築業にも本格的に参画を図るため、
前沢川堤防 今のヤマウラ(当時の山浦鉄工)さんに修行に行っていた私の弟である宮下勇を修行が終わると同時に入社させ、建築部門をまかせる事にした。 昭和47年のことである。又、弟の要望であった鉄骨工場を事務所横に建て基盤を固め、昭和48年、東都機械(株)中川工場新築を始めとし、土木(建設用石材含む)・建築の二本柱の確立ができたのである。

しかし、この頃の当社は、社内体制と建設会社としてのノウハウの面で大規模な物件を請負うには力不足であった。 このため、下請けしながらも勉強とノウハウの蓄積の時代でもあった。

私は常々思っていたことがある。それは建設業を営んでいく上で、県知事賞を受賞できる会社でなければ一人前の会社とは言えないのではないかということである。他の同業者に訪問した折、必ずといってよい程、県知事賞受賞の表彰状が飾られていた。
この表彰を受賞することを一つの目標とし、仕事面はもとより安全面にもより一層の取り組みを行った。また当時、売上高も7億強で推移しており、一つのはずみが欲しいと考えていたのも事実であった。

そして昭和63年、県道北林飯島線改良事業において、私が一つのハードルと考えていた県知事賞を建設部門で受賞することができた。私を含め役員・従業員全員で喜び合ったことを昨日の様に覚えている。
そして新たに土木部門・建築部門でも認められる工事をしようと誓ったのである。

 

箱物への展開と自信、社内の充実

箱ものと呼ばれる公共の建築物件を元請けとして請負いたいという当社の願いに大きな転機がおとずれたのが、昭和57年から始まった中川村立東小学校校舎の改築工事であった。
以前より山浦鉄工(現在ヤマウラ)さんとは、仕事を通じお世話になっていたが、小学校校舎改築という大きな箱もの物件を共同で行うことになったのである。山浦鉄工・宮下建設工業企業体の始まりである。
当社としては、山浦鉄工さんのノウハウを吸収する絶好の機会であったし、何にも増して当社建築部門での大きな自信にもなったのである。

これを機に、建築部門における完成高が増えていき、昭和58年には松川町に支店を開き営業の一層の拡大を図った。松川町役場新築に携わることができたのも一つの成果であった。
建築部門拡大を期に手狭となった資材倉庫を昭和61年に新築した。また、安全無災害工事をという目標に向かっての一環でもあった。そして国道沿いの現在の場所に建設したのは大きな理由があった。

当時、地域の方々より宮下建設工業という名前をよく聞き又、車や工事現場もよく見かけるが、いったいどこに会社があるのだろうという声が聞かれるようになった。又、この事は、当社の従業員確保にも少なからず影響しているのではと感じ、現在の場所を選んだのである。
尚、倉庫を建設する一年前に有限会社から株式会社とした。企業として前進して行くための重要なステップであった。

 

総合建設業への躍進、地域社会と共に

平成の年号になってから今日までの当社は、順調に成長してきたと考えている。土木・建築そして南信随一、県下でも有数の建設用石材保有企業としての太い骨子の基、売上高も10億円を超え、平成4年度には12億円を見込める企業になれた。創業当時から思えば想像できない程の事である。
土木業に至っては、平成元年、復旧治山事業第70号工事にて2年連続の県知事賞受賞となった。私自身2年連続の受賞には驚きもあったが、より大きな自信となった事は言うまでもない。同年中川村より団体営土地改良総合整備を、また伊那建設事務所からは、地元道路整備事業を請負うなど、大型公共事業を元請け出来るまでになった。

建築業では、中川村社会体育館新築工事を始めとし、中川西小学校体育館建設(伊南建設企業体)・中川ショッピングセンター建設・高齢者憩いの家建設・デイサービスセンターいわゆり荘建設(サンポーさんと共同企業体)など地元の大きな箱ものを請負うまでになり、当社の大きな実績となった。

余談であるが中川ショッピングセンターの裏に、親水公園を兼ねたパターゴルフ場を建設した際、当社のアイデアで水路の石積に関して石の色を変えて組上げてみた。色と言っても自然石の色をそのまま活用している。水面は見る角度によってさまざまな色合いを見せてくれる。気づく人は少ないかも知れないが、これからの建設業にとってちょっとした工夫・アイデアは必要ではないかと私は思う。

そして、宮下建設工業は今まさに総合建設業としての大きな一歩を踏み出したばかりである。

私は常に地域社会と密着した企業をと考えている。これは仕事面だけであってはならないと思っている。
あれは現在の資材管理センターを建設した頃の事だったと思う。昭和58年に災害があり、復旧工事が一段落ち着いた頃センターの建設をしたのだが、周囲の方々から「あの復旧工事で儲かったから大きな管理センターが建てられたんだ」という声を耳にした。別に耳を傾ける必要もなく、放っておけば良いのであるが、何せ狭い地域・小さな村である。少しでもこの会社のことを理解してもらうことが大切である。企業として地域行事に参加・協力する事が地域発展・活性化にもなり、また会社の発展にもつながっていくと信じている。

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